「なぜ?」を考える

色んな道場や教室、団体さんの殺陣を見てきたが、およそ足りない原因はタイトルにした「なぜ?」だ。

なぜ、刀を抜くのか
なぜ、袈裟切りなのか
なぜ、二刀なのか
なぜ、避けたのか

殺陣は何度も言うが演技である。役者さんならば、台本に向き合った時に「なぜこの台詞なのか?」と考える機会が多いはずだ。そこには登場人物が言葉にしていない気持ちや根拠を探すからだ。殺陣もまた全く同じだ。

殺陣の台詞は「手」である。手付されている時に、初手が真向だったとする。
「なぜ真向なのか?」を読み解く必要があるという事だ。一手一手に意味がある。
ただ派手に刀を振れば「カッコいい」などと言われる、その程度では演技としては評価に値しない。

「抜刀」をただ自分のペースでするのではなく、そこから魅せる雰囲気づくりをする為に、状況によって、ゆっくり抜刀するのか、素早く抜刀するのか、抜刀の際は上から刀を持ってきて構えるのか、切っ先を下から持ってきて構えるのか、構え方は正眼か八相か等、「抜刀」だけで方法が色々ある。
その中で役柄、状況にあった方法で行うから気持ちも自然とそこにのってくるのではないだろうか。
殺陣の稽古だと、役柄もない事が多いが、役柄が無いなら、「手」(台詞)で判断する方法だってある。芯が斬る時以外は全て受けだった。ならば、芯は人を斬りたくないけど仕方なく斬っているという演技が合うかもしれない。または、ただただ達人で降りかかる火の粉を払っているだけという演技が合うかもしれない。
手を読み解こうとする想像力が、殺陣に感情を肉付けさせる事ができる。

とても勘違いしている動画があるので、リンクを貼ってみた。

https://www.youtube.com/watch?v=QORjZJ-x4Sc


さて、どうだっただろうか。すごい芝居出来てる!と思う人はゼロではなかろうか。
この団体さんが「芝居をつける」と称して行っていたのは「手の確認」だ。
手の確認は芝居ではない。

動画の手付で芝居をつけるなら、初手の袈裟切りは、軽く受けたのか、必死で受けたのか。そしてそうなった根拠は何か。
例えば、初手は殺陣の始まりとして「堰を切ったように斬りかかりたい」と見せたいから、大声を出して両手で渾身の一撃にしたい。となれば受け手は、必死で受ける演技をしなければ成立しない。これが芝居なのだ。
渾身の一撃が受けられたので、2手目の逆袈裟を囮として、3手目の足を本命として斬りたい。となれば、2手目は受けられる前提のある種、フェイクとして刀が当たるやいなや、足に切り込む。では受け手は、2手目を受けた瞬間に足に斬りかかられるので、2手目より3手目の受けの方が必死感を出す演技をする。こうやって芝居を組み立てるのだ。
この作業をする事により、殺陣の表現は豊かになる。
そして殆どの殺陣の稽古動画はメトロノームのように単調なリズムで斬り合っているが、この作業のおかげで、殺陣のリズムが単調でなくなる。これがリアルな殺し合いの駆け引きではないだろうか。

一手一手に「なぜ?」と問うてみてほしい。
そこから生まれる殺陣は、刀を合わせているだけなのに、感情が伝わると断言する。

逆に言えば、稽古で行ってる殺陣は、殺陣になる前の技術的な所作が大半を占めるという事に他ならない。